Gavriil Abramobich Ilizarov は1921年、Belovezh (Belorus)で出生した。貧しい農家の家に生まれ、こどもの頃から農家の仕事を手伝いながら生計を立てなければならず、最初は満足に学校に通えなかったようだが、後にすぐに追いついたと伝えられている。Ilizarovはこどもの頃、医者のおかげで奇跡的に病気が治ったことがきっかけで、クリミアの医科大学に進学することを決めた。しかし、時あたかもthe Great Patriotic Warの最中で、Kazakhの町に疎開し、カザフスタンの医科大学を卒業した。
1944年、若きIlizarovはカザフスタンに近いKurganの病院への勤務を命じられた。当時、彼はその地方で唯一の医師であったため、労働環境は劣悪で、医療機器や薬も十分でない中、あらゆる患者の治療に携わらなければならなかった。そんな中、彼は次第に整形外科学、骨折に関心を示すようになり、これまでの骨折治療に疑問を持つようになっていった。1951年、Ilizarovは前年に彼自身が発明した器械を用いた骨折の治療法を発表した。この方法により骨折の治療期間が大幅に短縮された。Ilizarovは徐々にこの方法の応用範囲を広げていった。ある時、ある骨折患者に骨折部に圧迫をかけるためIlizarovはリングを連結しているロッドのナットを少しずつ回してリング間の距離を徐々に縮めるように指示した。ところが、その患者は間違ってナットを逆に回し、リング間を延長してしまっていた。驚いたIlizarov はレントゲンを撮ってみて、骨折部にできたギャップに新たに骨が形成されていることを発見し更に驚いた。その後、さまざまな実験により、これが単なる偶然の産物ではなく、条件が整えば骨や軟部組織は牽引に対し組織新生が起こるという原理(stimulating effect of tension stress on regeneration)を発見したと伝えられている。1952年にはKurganの新聞に12.3cmの骨延長が行われたことが掲載されている。しかし、Ilizarovの業績はあまりに当時の常識とかけ離れていたためか、なかなか受け入れられることはなかった。
1965年、Ilizarovの治療成績に疑いを持つモスクワの医師たちはIlizarovのペテンを暴くためにVladimir GolyakhovskyをKurganに派遣した。ところがIlizarovの患者の詳細を見ているうちにGolyakhovskyはすっかりIlizarov法に魅了され、ミイラ取りがミイラになってしまった。ところが、モスクワに戻ってIlizarov法の有用性を力説したGolyakhovskyは窓際に追いやられてしまった。ちょうどその頃、東京オリンピック走り高跳び金メダリストであったValery Brumel(2m28cmという大記録をうち立てた)が1967年の夏、不幸なことに友人の運転するバイクに乗っていて交通事故に巻き込まれ、右足をバイクに轢かれてしまった。両下腿の開放骨折であり、創部は汚染していた。Golyakhovskyの古い友人であった彼のガールフレンドは、Brumelが現在の治療に満足できず途方に暮れていることをGolyakhovskyに伝えたところ、Golyakhovskyは是非ともIlizarovの診察を受けるためにKurganに行くようにと奨めた。果たしてIlizarovの治療を受けたBrumelは1年後、再びハイジャンプで2mをクリアできるようになったのである。
スポーツジャーナリストはBrumelの奇跡的回復について書きたてたが、同時に彼の救いの神であるIlizarovについても報道したので、Ilizarovの名声はソ連邦全土に轟くことになった。多くの有名人がKurganになだれ込んだ。Golyakhovskyの上司であったVolkovは、驚き、あわててGolyakhovskyにIlizarov法を始めるように命じた。GolyakhovskyはかつてIlizarov法を賞賛したために自分を罰したVolkovの言葉に唖然としてしまった。
しかし、Ilizarov法が西側に伝わるのは更に10年以上の年月を必要とした。そのきっかけになったのが、イタリアの冒険家Carlo Mauriである。彼は、事故で左下腿の開放骨折を受傷し、イタリアで数度の手術を受けたが治癒せず、感染性偽関節となっていた。冒険家としての活動ができなくなったMauriはジャーナリストとなり、あるとき北欧で取材中、船中で知り合ったロシア人からIlizarovの噂を聞いた。1980年11月、MauriはIlizarovの診察を受けるためにシベリアへと旅立った。6カ月間の治療の後、Mauriの下腿は完全に治癒し、MauriとIlizarovは親友となった。Mauriの完全に治った下腿を見て驚いたのは主治医であったCatagniらイタリアの医師達であった。自分達がかつて絶望であるとさじを投げたMauriの下肢が治っているのだから、医師としてこれほどショッキングなことはないのだ。
さっそく彼らはMauriの助けを得て1981年6月にBellagioでの学会にIlizarovを招待した。Ilizarovの講演に大変感動したCattaneo, Catagniらイタリアの医師達はIlizarovから寄贈されたセットを用いてIlizarov法の臨床使用を開始した。1982年4月、Maiocchi, Catagniらイタリアの医師達はMauriの協力でシベリアのIlizarovのもとを訪れることができた。こうしてIlizarov法は1980年代に急速に西側諸国にも広まることになったのである。
Ilizarovは多大な功績に対し、Lenin prizeを授与された。1990年、Ilizarovは第3回創外固定研究会に招待され来日した。ところが1992年7月、二度目の来日を前にして突然、心疾患で70年の波瀾万丈の人生の幕を閉じた。 |